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日南市

九州宮崎県

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日南市の神社

串間神社 くしま(旧郷社)

祭神:彦火火山見尊(ひこほほでみのみこと)

鎮座地:串間市大字串間一四一〇番地

例祭日:十一月十四日

社殿:

本殿(流造) 一〇坪

拝殿(入母屋造)二九坪

境内坪数:三、五〇六坪

創立年月日:不詳

由緒沿革:

彦火火出見尊を主祭神として外に十二柱の神々を祀るので、十三所大明神と称していた。山幸彦と呼ばれる主祭神が、猪、雉などの獲ものの多いこの地を狩場として笠狭の宮から通われた仮宮所で穂根宮と称し、その宮跡を斎きまつったと『神名録』は伝えている。高鍋藩寺社帳』によると、桓武天皇の時に平安京の朱雀院に鎮座し、その後、順徳天皇の時に、当地に安置したともいうが詳細はわからない。元亀元年(一五七〇)八月、当時の神主が神祇道管領吉田兼兄より神道裁許状を受け、以来吉田神道の系列に属していたと見られる。穂○宮を明記した縁起書は、、水禄年中、ト部兼倶が書いたもので、永禄六年(一五六三) には、すでに十三所明神として合祀されていたことがわかる。正平十四年(一三五九)には、野辺盛房が、十三所大権現の社殿を再興したことが記録されており、その後、応仁元年(一四六七)には島津立久、永正十二年(一五一五)、天文十三年(一五四四)と相次いで島津氏が再興、秋月領となっても、元和七年(一六二一)から、慶応二年(一八六六)まで再興が続いている。『高鍋藩神社調』によると、主祭神の御狩の行在所であったとする縁起により、壮大な「御祭祀狩」の神事が、内容は不明だが、神楽から始まり、鎮之神狩まで行われていた。主祭神以外の十二社は、社殿の後に、神号を彫り付けた石碑が並べられてあった。社と祭神は次の通り。

女○大明神(豊玉姫命)、神花大明神(不詳)、初熊大明神(同)、泊柱大明神(猿田彦命、速秋津姫命)、勿体大明神(不詳)聖大明神(天香語山命)、児之御前(不詳)、歳大明神(倉稲魂命)、篠大明神(不詳)、上津杖大明神(同)、下津杖大明神(同)、杖立大明神(同)『日向地誌』 によると、明治五年には、さらに八社が合祀されたが、その中には、すでに十三所権現として合祀されている神もあり、またその再遷座され、復座された神を除くと、新たに合祀された社と祭神は次の通り。

十一所大明神(須○鳴命)八幡(誉田別命)天神(菅原道真)鵜戸大権現(○○草茸不合尊)なお末社として矢大臣二社祭神豊磐間戸命、櫛磐間戸命、大将軍一社、磐長姫、倉稲魂命、岡象女命島津氏は歴代手厚く奉仕し、藩主が秋月氏に変わった後でも、領主から神領十五石を寄進し、延暦二年(七八三) にはさらに神○料に田一反余を寄進し、明治維新まで続いた。

明治三十九年神○幣○料供進神社に指定された。

特殊神事には、二月二十日「ねたろう」の神祭りがある。五穀豊穣と家内安全を祈願する祈年祭を恒例通り済ませると、主祭神彦火々出見尊の神輿は、女○大明神(豊玉姫命)の待たれる市内屋治地区に向われる。ねたろうとは石詞に刻まれた「太郎若宮大明神」(女○大明神の別称)が一年間休養されているので、ね太郎の愛称となったものだろうという。猿田彦命を先頭とする御神事が到着、ねたろう神の前で「オーオー」と来意が告げられると、姫命はいとも晴れやかに粧いも美しい姿で一年一度のであいに神輿に同乗され、屋治氏子の待つ斎場に向われる。黒山のように集まった老若男女の歓声の中である。祭典は五穀豊穣と氏子の幸福を祈るもので、それが終ると、神事は、次の旅で上町に向かう。ここでも屋治同様の祭典の後、神社にご帰還になる。

次の祭典は、境内で行われる種子まき神事種子まきの神事である。

体長二五㍍高さ一㍍の木型の牛を操り、田んぼのならしから種子まきの演技をし、種子まき、うしの神うたを歌い、五穀豊穣と家内安全を祈って神事終了となる。種子まき、うしの神歌は右の角の外に、きゅっとそつたるは如何に悪魔災難を除く角にて候左の角の方に、きゅっとそつたるは如何に福徳幸を聞入る角にて候中略  

牛の股にぶらりぶらりとするは如何に福徳幸を授くる玉にて候

上田町も四千町、下田町も四千町、合わせて、八千町の稲作を今日一日刈らんのうする祭にて候

豊なる福の島なる島守がくる春ごとに福の種子まく