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三圃式農業と隠岐諸島農法

ヨーロッパでは古くから農業が存在したが、もともと中東の肥沃な三日月地帯から地中海島南部に農業がもたらさせたのは紀元前とされ、地中海地域において今日のヨーロッパ農業の原型が形成されている。この農業には次の3つ特徴がみられる。①小麦や大麦などの穀物栽培が沿岸平野で行われたこと、②主に夏の乾燥に耐えられる多年生作物であるブドウと樹木作物、③羊やヤギ、豚などの小家畜などであった。

古代地中海農業は北に伝わり、中世の三圃式農業ができ、これからノーフォーク輸栽式農法が発展し、更に酪農や穀物栽培、園芸農業などに分化していった。

中世には、森林の開墾が進むともに、休閑地を組み入れた三圃式農業が行われた。

三圃式農業は、ヨーロッパにおいて、近代的輪作(注1)農法が導入されるまでの数百年間、開放耕地制度(注2)と結び付いて実施された代表的な土地利用制度である。村の共同耕地全体をほぼ同じ大きさの三つの耕圃に分け、その一つには春播きの大麦やエンバクなどの夏穀(ところによっては、エンドウ、インゲンマメ、ガラスマメ、キャベツなどの野菜が加わる)を、他の一つには秋播きの小麦やライムギなどの冬穀をあて、残りの一つは休作して家畜の放牧にあてる。この順序を1年ごとにずらして、3年で一巡させる輪作様式が三圃農法である。冬穀や夏穀の作付け地も、収穫後は休閑地とともに家畜の放牧にあてられ、地力の回復が図られた。三圃農法の発展には地域差があり、肥沃で平坦な土地の多いライン、ロアール間の農業の先進地方では、8世紀ごろから実施されていたと考えられるが、一般に普及するのは11世紀~13世紀にかけてである。地中海地方では中世を通じて、ローマ時代以来の二圃制と無輪犂が維持され、都市近郊の果樹(オリーブやブドウ)栽培地は囲い込まれていた。

三圃制は、二圃制に比べ次のような長所がいくつかある。第1に休閑地が2分の1から3分の1に減り、耕地面積の6分の1の利用増が図られること、第2に1年の異なる時期に異なった作物を二度収穫するので、農業労働の配分にも天候不順にも効果的に対処できることがあげられる。第3に春播き穀物としてエンバクを栽培することで、馬の飼料を確保し、野菜とくに豆類を栽培することにより、農産物の多様化と食生活の改善に寄与したことである。

14世紀にフランドル地方で、休閑地においてカブやクローバーなどの飼料用作物の栽培が始まり、休閑地が徐々に減少していった。飼料が増加したので家畜が増え、家畜の耕地に投入される廐(うまや)肥(こえ)の増加、そして農業生産の増加をもたらした。また17世紀になって家畜の舎飼いが一般的になり、廐(うまや)肥(こえ)を効果的に耕地に投入できることになったこと、条播機の発明により中耕除草が可能になったことも生産増加を進めた。ヨーロッパは14~19世紀にかけてゆっくりと進行したこの一連の変化は農業革命とも呼ばれている。その後、作物生産を行う耕種部門と家畜飼養が密接に結び付いた混合農業が成立することになる。さらに機械化の進展や化学肥料の導入によって、ますますヨーロッパでの農業生産が向上するとともに、交通網の発達による農産物の流通が盛んになり、個々の農産物の適地での生産が進んでいった。ヨーロッパの北部や沿岸部、そして山間部は特に酪農が特化し、比較的温暖な地域では、ライ麦から消費が拡大してきた小麦の生産に特化する地域、家畜の飼料用穀物を生産し家畜の肥育を主に行う地域など農業部門が進んだ。

隠岐の牧畑は、施肥農業の行われる普通の畑地とは別に、その外側に、ある季節には作物(大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗など)を栽培し、他の季節には牛馬を放牧するというふうに、耕作と放牧とを交互に輪転する耕作輪転農法がおこなわれる畑地のことである。

隠岐は島の丘陵をなす地形を利用して、耕作と放牧とを交互に輪作する農業経営方式が存在し、このような耕牧輪転ということから、これはヨーロッパの穀草式に類似している。

隠岐の牧畑は、作物及び作付けと牛馬の放牧とが交替し輪転する土地、または、土地利用の方式であるが、牧畑の存在する隠岐の村々では、平坦地や人家の近くに多い普通の水田や畑を垣内または廻中と呼んでおり、これはヨーロッパの内圃に当たる。

牧畑の経営は、作物によって消耗した地力を休閑中と休閑中における放牧牛馬の糞尿とによって補うとともに、粟→大小豆→麦→大小豆という作物輪作関係によって、地力を維持しようとするものであって、施肥によらない地力維持法である。山地は多くて耕地の殆どが丘陵地帯の土地であることを考えると効率的な耕作である。このように牛馬の飼養と牧畑の耕作とを有機的に結合させて耕耘も牛馬に隠岐犂を犂かせておこなっていることは合理的であり、作物の輪作関係から見ても単に異なった栄養分を要求する作物を輪作するということではなく、大小麦のように養分を多く要求するものの前後には、大小豆のようなマメ科植物の作付けを行って、土地の豊沃度を保つという意味があり、合理的な土地利用がなされている。

牧畑村全体を構造的に見れば、そこには牧畑以外に普通田畑もあり、普通田畑と牧畑との間には、牧柵または垣があって、垣があって垣内の普通田畑では普通の耕種農業が営まれ、垣外の牧の内にある耕地の牧畑では、牛馬の放牧が輪転している。この関係はヨーロッパの農法における内圃と外圃に似ている。

主な三圃式農業と牧畑の違いは次の通りである。牧畑は島で行っており、漁業生活に大きく左右されたこと、海の物流の発達が生活を大きく変えたこと、また狭い傾斜した段々畑や山・谷を利用していたこと、原則として四区画を垣柵で囲っていた。イギリスの三圃耕作の殆どは村民が各々散在していた耕地をひとまとめにし、その周りに堅固な垣根をめぐらし、その真中に個々のまばら中庭型の農場があったものの三圃式制度の場合は区画の仲間と同じ時期に耕起・播種・収穫など同一作業を行うので、人や家畜が自由に通れるようにするため、耕地には囲垣を設けていない。

日本固有作物種類(粟・稗)、牧畑は労働不足や物流の発達により衰退していつたが、三圃式農業は人口増加により永久草地が減少し、家畜飼養・維持が困難になり休閑地が消失し休閑地に根栽類を栽培し輪栽が普及していく。

主な三圃式農業と牧畑の同じ点は次の通りである。共同作業、休閑期の有効利用、耕作と家畜の相互利用、交通の便が悪い(特に山間部)、生産性が悪い、輪作農業、栽培方法は粗法的で肥料は家畜の糞尿、機械化による衰退などである。

(注1)輪作とは

作物を一定の順序に周期的に交替させて作付けにし、同じ畑に作物を連作すると地力が低下して収量が減る。輪作はこれの防止と、飼料の確保の両目的から、古くヨーロッパの農業において発達した。

初期には土地を穀物畑と家畜飼料用の草地とに二分し、穀物畑の地力が失われてくると草地を畑にして交替させていた。その後、穀物栽培の割合が増えるにつれて、耕地を三区分し、一区は休閑し、他の二区に春播きムギおよび秋播きムギを作付けて、年々これらを交替させる三圃式輪作にかわり、さらに休閑地にもマメ科植物を植えて積極的に地力を増す改良三圃式に発展した。また畑をいくつかに区画して、各区に穀物と牧草とを数年おきに規則的に交替させ、家畜を媒介として地力を維持する、穀草式とよばれる農法が行われた。19世紀以降は、休閑地を廃して、マメ科作物や飼料作物を穀物と一定の順序で交替に作付けて、地力の消耗を合理的に防止し、家畜飼料の生産も強化した輪栽式農法が発達した。その代表的なものが、ドイツを中心に普及したノーフォーク式輪作であった。しかし近年は地力の維持・増強は肥料を施すことで可能となったため、輪作はむしろ労力投下の年間平均化や適正配分、災害による危険の分散など経営の合理化や安定のための意義が強くなった。輪作はこのほか、連作による病気や害虫の発生、雑草の増加を防ぐことに効果がある。作物の種類がかわると病害虫・雑草の種類や生態が異なるためである。また草地を輪作に組み込むことによって、土壌侵食を防ぐことも重要な効果としてあげられる。

(注2)開放耕地制度とは

中世から近世にかけて、ヨーロッパの平野部集村地方で支配的であった農地制度。村の共同耕地(耕圃)を構成するいくつかの耕区は、それぞれ各農民の持ち分に属する耕地片の集合体で、共同耕地全体として、保有地は複雑に混在している(混在地制)が、同一耕区内の保有地の間には生け垣、柵などの仕切りがなく、一続きで開放されていた。耕区の形状には、南フランスやイタリアに普及していたようなパズル状の不規則開放耕地もあったが、典型的にはロアール川とドナウ川の北方、およびイングランドの大部分の地方にみられたような、細長い帯状の地条が規則的に並ぶ長形開放耕地であった。このような耕地の型の相違は、犂の型の相違にも対応する。三圃農法と強固な共同体慣行が発展した北方では、重く湿った土壌に適合した、何頭もの家畜によって牽引される大型の有輪犂が出現するが、この犂の隊列は簡単に方向転換できないところから、極端に細長い長形の耕地が要求された。これに対し、伝統的に二圃制が維持され、軽量な無輪犂で土地を浅く耕していた地中海地方では、耕地は正方形に近づき、畦の方向を変えたり、交差させることもできた。三圃制であれ二圃制であれ、休作中の耕圃や収穫後の耕圃は、村の伝統的慣行に従って、農民の家畜(その割当て頭数は保有地面積が基準)の共同放牧にゆだねられ、家畜の糞尿によって自然に地味が回復された。このように、開放耕地制度は、家畜を利用して穀物生産を行うヨーロッパ特有の混合農業ないし有畜農業の伝統に適合したものであった。しかし、家畜の放牧には共同耕地だけでは不十分なところから、森林、原野などの共同地内の牧草地も放牧にあてられた。

農業の共同化については、領主を含めて、村の全共同体成員の間で恒常的な取決めが必要とされた。それというのも、領主の直営地も地条として、農民が保有する地条の間に混在する場合が多かったからである。農業共同体としての村の慣行(掟)は、共同放牧以外にも、耕圃や耕区の境界設定、作物の種類や収穫の時期の統制(耕作強制)、あるいは共同地におけるさまざまな用益権など、広い範囲に及んだ。

<参考文献>

·三橋時雄 昭和44年3月 隠岐牧畑の歴史的研究 ミネルヴァ書房

·島根農科大学隠岐農業調査班編 1954 隠岐牧畑に関する調査 : 隠岐島知夫郡浦郷 

町における 島根農科大学

·錦織英夫 昭和8年 郷土科学パンフレツト 刀江書院 

·小川徹 2007年 人文地理学概論 法政大学