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三内丸山遺跡

大型掘立柱建物跡

三内丸山遺跡は、今から約5500年前~4000年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれ、平成4年からの発掘調査で、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人の墓、子どもの墓、盛土、掘立柱建物跡、大型掘立柱建物跡、貯蔵穴、粘土採掘坑、捨て場、道路跡などが見つかり、集落全体の様子や当時の自然環境などが具体的に判明してきた。また、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、土·石の装身具、木器(掘り棒、袋状編み物、編布、漆器など)、骨角器、他の地域から運ばれたヒスイや黒曜石なども出土している。

ヒョウタン、ゴボウ、マメなどの栽培植物が出土し、DNA分析によりクリの栽培が明らかになるなど、数多くの発見が縄文文化の認識を大きく変え、平成12年11月には国特別史跡に指定される。

Ⅰ.発掘遺跡や出土品から当時の生活を推測する

1.大型掘立柱建物跡

地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡である。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられている。

大型掘立柱建物跡

大型掘立柱建物跡の復元

(復元イメージ)

2.盛土

竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器·石器などの生活廃棄物をすて、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと推測され、中から大量の土器·石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物が多く出土している。

生活廃棄物

生活廃棄物

3.谷

谷はゴミ捨て場として使われて、水分が多く空気から遮られていたので、土器·石器の他に、通常では残らない木製品や漆器、動物や魚の骨、うろこ、植物の種子、木の実、寄生虫卵などが良好な状態で残っていた。

三内丸山遺跡土器

三内丸山遺跡土器

(土器)

4.竪穴住居跡

縄文時代の住居は地面を掘り込んで床を造り、中央には炉があり、住居の平面形や柱の配置、炉の位置や構造は時代によって変化が見られる。

竪穴住居跡基礎

竪穴住居跡復元

(復元イメージ)

5.大型竪穴住居跡

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼び、三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっている。集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。

大型竪穴住居跡基礎

大型竪穴住居跡の復元

(復元イメージ)

6.掘立柱建物跡

地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられ、集落の中央、南盛り土西側などから密集して見つかった。

掘立柱建物跡

掘立柱建物跡の復元

(復元イメージ)

7.埋設土器

子どもは亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられている。

埋設土器

子どもの埋設土器 

8.土坑墓

大人は、地面に掘られた円形や楕円形の穴に埋葬されました。大人の墓は集落東側の道路に沿って、両側に2列に配置されている。

大人の墓は集落東側の道路に沿って

(土坑墓)

大人の土坑墓

(環状配石のある土坑墓)  

9.道路跡

集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びている。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもあります。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかった。

道路跡

三内丸山遺跡道路跡

道路跡(くぼんでいるところが道跡)

10.粘土採掘坑

土器を作る時の粘土を採掘した穴である。粒の細かい、粘土に近い火山灰を利用して土器を作っていたと考えられている。

粘土採掘坑

11.貯蔵穴

集落の外側、台地の縁近くにまとまって造られている。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、クリなどの木の実食料がたくわえられたものとし推測される。中には深さが2メートル近くもある大型のものもある。

貯蔵穴 三内丸山遺跡

(発掘された貯蔵穴)

12.交流·交易

遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれ、集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流·交易が行われていた。

1)ヒスイ

ヒスイ三内丸山遺跡

約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれ、原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっている。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要である。

2)黒曜石

黒曜石 三内丸山遺跡

ガラスとよく似た、鋭く割れる石である。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきた。

3)琥珀

琥珀 三内丸山遺跡

岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれ、ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられる。

Ⅱ.発掘から当時の生活を見る

1.環境

縄文の人々は、自然に積極的に働きかけて住みやすくしていたと考えられ、当時は現在より少し暖かく、年間の平均気温が2度から3度くらい高かったと考えられている。したがって海が現在よりも内陸に入り込んでおり、標高5メートル前後が海岸線と考えられており、このあたりは集落ができる前はブナやドングリなどがたくさん生えていた豊かな森で、集落を作るときにクリやクルミを残してそれらの樹木は伐採されてしまい、大部分がクリ林となり、人間が管理していた。集落の中には大きな木はなく、雑草が生えている程度で、生活しやすいように自然そのものも縄文人が作り替え、維持管理していた様子がわかってきた。

2.ゴミ問題

縄文時代は定住社会であり、単にゴミが増えて不衛生になったというだけでは他の場所に移動することはあまりなく、集落のなかにゴミ捨て場をつくるということで、その解決がはかられていた。しかし、当時の人はゴミを単なる不要物としてみていたわけではなく、盛土からはヒスイの玉や土偶もたくさん見つかり、ゴミ捨て場自体がおまつりの場所になったり、物を捨てるということの中に、再び帰ってきて豊かさをもたらすことを祈る気持ちが込められていたともいわれている。

3.技術

1)漆製品

漆製品 三内丸山遺跡

三内丸山遺跡の低地から赤漆塗りの木製皿などが見つかっているほか、赤色顔料なども見つかっており漆製品が製作されていたと考えられる。縄文時代の前期中頃(約5,500年前)のものである。漆は一本の木からの樹液の採取量が少なく、精製に専門的な技術を必要とし、三内丸山遺跡には、そうした高い技術を持つ人がいたことがわる。

(出土した漆器の復元イメージ)

2)縄文ポシェット

縄文ポシェット 三内丸山遺跡

イグサ科の植物を利用して編んだ、小さな袋が出土しました。網代編みで作られている。完全な形のものは日本でこれだけである。

4.集落の様子

三内丸山の集落の様子

(復元イメージ)

跡の規模は、全体で約38ヘクタールあり、 これは東京ドーム約7個分になり、発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきている。

遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にあって、当時は豊かな落葉広葉樹の森が広がっており、クリ、クルミ、山菜などが豊富であった。また、近くの陸奥湾は、年間平均の波の高さが約30センチメートルと穏やかな内湾で、魚が豊富であった。集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に縄文の人々は村を作っていた。

この場所は食料を得る上では好都合で、海と森の恵みを組み合わせることによって、 一年間この場所で安定した生活をすることができましたと考えられる。

縄文人は土地の使い分けをし、特に墓と普段生活している住居は厳密に分けられている。他に家が密集して作られる所、祭りの場所、物をしまう·貯蔵する場所、ゴミ捨て場などを作っていた。

5.墓

大人の墓と子供の墓は区別され、道路に沿うように墓を配置するなど、墓を作るにはいろいろなきまりがあったと考えられる。

1)大人の墓

集落の東側から大規模な大人の墓地が見つかっており、大人は亡くなると地面に楕円形の穴を掘って埋葬していた。大きさは1~2.5メートルで、手足を伸ばして埋葬されたものと考えられ、中からヒスイのペンダントややじりがまとまって出土した墓もある。

2)墓の配置

大人の墓は南北を向くように道路をはさんで東西方向2列に、それぞれ足を向けて、向かい合うように配置されていた。

3)墓と道路

2列に並んだ墓の間には道路が通っており、縄文時代の道路は地面を掘り下げて、浅い溝のようになっていた。幅約12メートル、長さが420メートル以上海の方向へ延び、その両側に大人の墓が並んでいる。

集落の西側から、周りを石で囲んだ、この集落の有力者のものと考えられる墓が見つかり、直径が約4メートルで、土を盛っているものもありました。これらは道路にそって斜面に並んでいる。

4)子どもの墓

子どもは亡くなると、 普段使っている土器の中に遺体を入れて埋葬している。 土

器の大きさから考えて、おそらくは1才前後の子どもと考えられ、中から丸い石が見つかる場合が多く、これまでに800基以上の子どもの墓が見つかっている。

6.縄文人の食生活はゴミ捨て場を調べることによって知ることがで、骨を分析することによって何を食べたのかわかる場合がある。それによると、縄文人の食料の大部分は木の実などの植物性の食料であった。 これまでに、たくさんのクリやクルミが出土しており、クリは特に重要だった。また、イモ類や山菜も利用されたと考えられるほか、マメ類やエゴマ·ヒョウタンなども栽培されていたことがわかっている。

動物の骨では、普通の縄文遺跡ではシカやイノシシが多いが、三内丸山遺跡ではムササビやノウサギなどの小動物が多いことがわかっている。魚類ではマダイ·ブリ·サバ·ヒラメ·ニシン·サメ類などが多く、フグも食べられていた。また、当時の調理方法は「焼く」よりも「煮る」が多かったといわれている。

7.お酒?

エゾニワトコを中心に、サルナシ·クワ·キイチゴなどを発酵させた果実酒が作られていたようです。これらの種子は、まとまって多量に出土し、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなどと一緒に出土していることがこれを裏付けている。

(ニワトコの実)

Ⅲ.青森県三内丸山遺跡出土品の事例

今回指定された遺物は平成4·5年に調査した第六鉄塔地点と、平成4~6年に調査した旧野球場建設予定地の竪穴住居跡から出土したものである。第六鉄塔地点は低湿地だったため、土器·石器(円筒下層a式·b式期のものが中心)に加え、台地上では残りにくい有機質の遺物が多数出土し、骨角器は保存状態が良く、針の数が多いのが特徴である。編籠(縄文ポシェット)は縄文時代の製作技法を具体的に明らかにする資料である。竪穴住居跡の出土品は縄文時代前期中葉~中期末葉の土器·石器が中心である。

第6鉄塔地区出土 住居跡出土 土器·土製品 木製品

土器·土製品 185点

石器·石製品 911点

骨角牙貝製品 406点

木製品 2点

編物 4点

小計 1,508点 土器·土製品203点

石器·石製品 247点

小計 450点

合計 1,958点

深鉢形土器 369点

浅鉢形土器 7点

壺形土器 1点

土偶 11点

皿残欠 1点

鉢残欠 1点

石器·石製品 骨角牙貝製品 編物

石鏃 134点

石槍 45点

石匙 530点

石錐 83点

石箆 17点

削器 101点

磨製石斧 13点

敲磨器類 13点

石錘 2点

石皿·台石類 10点

砥石 15点

擦切具 8点 半円状扁平打製石器 14点

抉入扁平磨製石器 1点

石棒 6点

石冠 1点

異形石器 22点

装飾品 6点

針 133点

錘 22点

刺突具 85点

釣針 24点

銛頭 2点

箆 4点

ナイフ形牙製品 4点

ハンマー 1点

装身具 27点

針入れ 3点

骨刀残欠 3点

未製品等 101点 編籠 1点

編物残欠 1

Ⅳ.遺跡の考察·注意点(三内丸山遺跡)

1.時代の生活を把握する(復元の必要な条件)

建物は、時代の人々の生活の基幹をなすものの一つとして、衣·食·住などの生活が関係しており、どのような目的で、どういう効果を期待して、どのように使用されていたが重要である。

水は何処からどのようにして得ていたのか、その排水はどうやって捨てていたのか、何を食べていたか、それをどのようにして調理し、ゴミは何処に捨てていたのかなどが建築にかかわる。また、何に喜び、何を恐れ、悲しみといった当時の人々の心を理解する必要がある。前述がわからなければ、生きた「建物」を想定することは難しい。さらに、建物は単独して建っているもおのではない。それは機能するものであり、装置としての役割を負うこともありうる。

2.立地から考える

遺跡から山が見える、海が見える、川が近くにある、太陽と位置関係や日当たり、風がどのようにふいていたのか、など自然環境が重要である。

3.縄文時代の比較(日本列島と隣接地域

三内丸山を把握するためには、同時代の他の遺跡との違いを熟考し、縄文時代と文化を知ることが大切である。

4.構造物

構造物は木柱根の下の土の締まり具合から、上にかかった重量を推定(木柱根の真下の土と周辺の土の圧蜜の分析により建物の規模がある程検証できる)できる可能性がある。

5.人口

今から4000~5000年前の縄文時代の最盛期とされ、列島の人口は30万人と見られ、山内丸山から出土している大量の土器や住居後の年度をたどると1500年間の空白がなく生活が継続していた。三内丸山の集落は500人と推察される(集落の規模、建物遺跡、三内丸山における労働規模などから推定)。

6.山内の名所

サンナイとはアイヌ語で山(後)、から海(前)へ開けたといわれている。

7.栽培

炭化した沢山のクリの実が出土し、このDNA遺伝子はそれぞれの実の遺伝的に近く、また稗の痕跡も多量に発見されており、それぞれ食糧として栽培されていた可能性が高い。その他のヤマブドウ、キイチゴ、ウリ、マメ類、ヒョウタンなども多量の種が出土しており、何らかの人の手が加わった可能性が高い。

8.土偶<

一般に縄文時代は一遺跡に1~2個の土偶が見つかっているが、三内丸山ではすでに800点以上出土している。また、意図的に壊された土偶も多量に出土しており、生殖、出産、豊作、病気、けがなどに祈りや祈祷として利用していたのではと推察できる。

9.ヒスイ、琥珀

大ぶりのヒスイが特徴であり玉類や耳飾りが出土している。これらのヒスイは新潟県·糸川市の姫川上流から来たものとされており、新潟との交流が考えられ、丸木舟や筏で日本海を移動していた可能性が高い。また、三内丸山では琥珀の原石が出土しており、その琥珀は岩手県の久慈産とされ交流圏が見えてくる。

10.建物か非建物か

建物の基礎工事部のデータを検証すると、建設物であると推定されて、巨大な丸太は地元の山林でも確認できる。

11.気候

縄文文化は今から13000年前に誕生したとされ、この時期から気候の大変動が起こり、気温が急速に上昇し極端な寒さがなくなり、日本

列島に新人たちが活躍しはじめている。気温の上昇ともに海水面が上がり、自然に恵まれ、多種多様の食糧をもたらすようになった。また対馬海流が日本海に流入した頃から日本列島に四季の性格をもたらすようになった。このような時代背景を検証する必要がある。

<参考文献>

·大林組プロジェクトチーム 2007 「三内丸山遺跡の復元」 株学生社

·http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/

·http://ja.wikipedia.org/wiki/

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