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育課程論

アパルトヘイト(人種隔離政策・差別)

高校・社会・地歴科教育法

タイトル:アパルトヘイト(人種隔離政策・差別)

1.単元設定理由

アパルトヘイトを通じて南アフリカの地理を理解し、隣接する諸国と国際社会、及び日本を国際社会の視点から課題・問題点を捉え、差別を身近な問題とリンクさせながら思考力を高める。

2.目標

1)南アフリカの地理を理解させる。

2)南アフリカの植民地の歴史を理解させる。

3)南アフリカを植民地にした理由を考えさせる。

4)アパルトヘイトを理解する(区分、犯罪、低賃金)。 

5)南アフリカの地元の住民の生活の変化を理解させる。

6)近隣諸国との関係を考える。

7)アパルトヘイトへの国際的な制裁を考える。

8)日本と南アフリカの関係と日本の制裁を考える(特に貿易に注視)。

9)南アフリカの地下資源を理解させる。

·授業予定時間は1)~3)15~20分、4)~9)他20~30分

3.授業の展開

全体の学習内容と学習活動と指導上の留意点は、南アフリカの植民地の目的とアパルトヘイト(人種・肌の色・言葉・宗教など)の差別、及び差別から発生する問題点や疑問点を考え、アパルトヘイトが近隣諸国と国際的な関係に、どのような影響を与えたか考えさせ、身近な差別にも触れながら日本と南アフリカの関係を把握させながら授業を展開する。

 

学習内容

学習活動と指導上の留意点

資料

導入

アパルトヘイトがなぜ必要だったのか、そして、近隣諸国と国際関係を考え、日本の動向を考える。

アパルトヘイトの区分を十分に理解させる

法律の紹介

展開

1)南アフリカの図

2)植民地にしたオランダとイギリスの目的を理解させる。

1652年にオランダ東インド会社の移民の一団がケプタウンのテーブル湾に到着し、ヨーロッパからインドへ向かう船に食糧を供給する目的でやってきた。その後、

1830年にイギリスがケープ地域を奪った。

19世紀に金とダイヤモンドが発見されると、ケープ植民地首相セシル・ローズの率いるイギリスは、領土をさらに広げようとし、アフリカーナ・ボーア(農民)たちと戦争の原因となる。

この戦争は1899~1902年のボーア戦争とされ激しい戦争となり、アフリカーナ・ボーア人が6000人戦死、22000人のイギリス人が戦死し、イギリスの収容所で26000人のアフリカーナ人の女性・子供が病気にかかって死んだ。

3)アパルトヘイトの目的と差別(区分)を理解させる。

アパルトヘイトは人種差別と言われているが、犯罪、超搾取の社会システムである。

<アパルトヘイト関連法律>

①原住民土地法、バンツー自治促進法、バントゥースタン

(ホームランド)政策など。

1971年に実施された。国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けたホームランドといわれる「国」を10地区作り、白人の何倍もいる多数派である黒人をそこに住まわせようというもの。ホームランド10地区は種族別に分かれており、それぞれに自治権を与えて、最終的には独立国としようとするのであった。といっても、それは名目上であって、目的は黒人を他国の国民として扱うことで、彼らから南ア市民権を奪い、参政権を奪い経済的には白人に依存せざるをえない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。さらに、絶対多数人種である黒人を新独立国へと隔離することで、白人は多数派として、少数派であるカラード、インド系人と、「見かけ上の、差別はない」が「実質は白人優位の」多人種社会の再構築をも考えた。黒人の反対にもかかわらず、

トランスカイボプタツワナヴェンダシスカイの4地区は「独立」(1976年1981年)させられるものの、国際的には独立国として承認されず、むしろ国際社会の非難を浴びることになった。

②隔離施設留保法

レストランホテル列車バス公園に公衆トイレまで公共施設はすべて白人用と白人以外に区別された。白人専用の公園などの場所に立ち入った黒人はすぐに逮捕された。

③集団地域法

人種ごとに住む地域が決められた。特に黒人は産業地盤の乏しい限られた地域に押し込められ、白人社会では安価な労働力としかみなされなかった。

雑婚禁止法

人種の違う男女が結婚することを禁止された。

背徳法

異なる人種の異性が恋愛関係になるだけで罰せられる。その他、就職賃金教育医療宗教など、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。しかし、これらの差別法を非白人に守らせるには膨大な警察、管理機構が必要であり政府予算の半分近くがアパルトヘイト維持のための関連支出になってしまった。これらは白人納税者にとっても負担であり黒人の熟練労働を禁じたことも経済成長のうえでマイナスになった。

<アパルトヘイトの始まりと法制化へ>

1913年原住民土地法が定められ、何十万人ものアフリカ人が住み慣れた土地を離れ原住民地区とよばれる居住区に移らなければならなかった。しかし、アパルトヘイト政策は正式に法律として制定されたのは、国民党が選挙で第一党になってアフリカーナの単独政権が初めてできた1948年である。

住民登録により全ての住民が、外見・言語・家柄などで白人・黒人・カラード(混血)・インド系の四つのグループに分けられた。更にアパルトヘイト政策の柱となる法律が次々に制定された。

人種間通婚禁止法は、違う人種同士の結婚を禁止する法律。

集団地域法は2300万人の黒人に国土の内わずか14%をわりあて、残り全ての土地を480万人の白人に割り当てる法律で、この法律のもとで何百人の黒人が、国のなかを移動させられた。

パス法は黒人がいつも身分証明書を持ち歩くことを義務づけ、白人地域への立ち入りも制限した。

「白人専用の表示」は、映画館・劇場・輸送機関・病医院など国内至るところで表示された。また郵便局など幾つかの建物には白人用と黒人用を区別する仕切りが設けられた。

白人と非白人は公園で同じベンチに座ることを禁じられ、乗り物の中では隣に座ってはいけない。また公園やプールなど違い人種が一緒に使うと管理人が罰せられる。

一番大きな差別として、選挙権は白人だけに与えられた。

4)アパルトヘイトに反対する勢力(アフリカ民族会議)

アパルトヘイトに反対する最も重要な組織は、1960年に活動を禁止されたアフリカ民族会議(ANC)である。この指導者のネルソン・マンデラは、その後25年間刑務所にいれられ、活動拠点をザンビアの首都にし、マンデラにかわるオリバー・タボ議長に率いられていた。1912年に設立して以来非暴力の抵抗を行っていたが、政府から活動を禁止され、ANCは地下に潜伏し破壊活動を行うようになった。政府はその仕返しとしANC狩りとの名目で、隣接する国々に軍事介入した。

5)国際社会の制裁

<日本の経済制裁>

①外交関係、投融資、スポーツ・文化・教育交流、武器輸出入、アパルトヘイト執行機関の活動に資するコンピュータの輸出、クルーガーランド金貨その他の南ア資金貨の輸入(自粛要請)、銑鉄・鋼材の輸入、南ア国民への観光検証発給、日本国民の南アへの観光旅行、(自粛要請)南アとのク航空機相互乗り入れ、国家公務員の南ア航空機国際線使用などの規制を行った。

②国際的経済制裁

アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどの先進国と日本の制裁。日本はアパルトヘイトによる制裁というよりは、アメリカや諸外国の批判による経済政策と見られても仕方がない。

6)アパルトヘイトの撤廃までの概要(整理)

1948年に法制化され、以後強力に推進された。1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。その後、ANC(アフリカ民族会議)など、解放勢力との長期にわたる交渉の末に、1994年全人種による初の総選挙が行われ、国際連合に「人類に対する犯罪」とまで言われたこの制度は完全撤廃された。

植民地の目的を明確にする

アフリカの豊富な資源の影響を考える

アパルトヘイトの区分を指摘する。

ホームランドといわれる「国地区(10)を認識させる。

 

アパルトヘイトから生じた犯罪、超搾取を考える

南アフリカの地理を理解させ、差別を明確にする。

 

 

 

 

法律による制度の差別を日常生活と対比させながら差別の意識を深める。

 

 

 

 

 

 

 

アパルトヘイトの経緯を説明し全体の流れと捉えさせる。

 

 

日本人は名誉白人カラード(混血)とされたが、その理由を考えさせる。

日本と南アフリカの貿易と地下資源を注視させる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アパルト制度の反対勢力を注目させる。

自ら差別をなくす考えを深める(暴力と非暴力)。

日本経済と先進国、そして南アフリカの近隣諸国の動向を認識させる。

アメリカに対し日本は恒常的な黒字貿易による日本バッシング、また、南アフリカとの貿易拡大による日本批判の理由を考えさせる(エコノミックアニマル)

政治と経済の矛盾を考察する。

(旧通産省と外務省立場の違いに触れる)

パルトヘイトに対する外国の対応と制裁を考え、日本の制裁を具体的に認識させ、日本の動向の賛否を求める。その中で、南アフリカの豊富で貴重な地下資源を指摘する。

全体の流れの概略を整理する。

地図

参照

 

 

 

 

 

 

区分

地図

参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本と南アフリカの輸出入データ参照

 

まとめ

資源の少ない日本は外国と密接な関係(貿易)を余儀なくされている。国際主義(平和)の中で、政治と経済の在り方が国益を左右し、利益追求だけの姿勢が問われており、各国との信頼関係を保ちながら、政経一致を志向し世界共通の環境を柱としながら、DOAを含め世界をリードする日本の立場が問われている。

アパルトヘイトの要因を明確にし、南アフリカと周辺諸国の関係を理解させ、諸外国の制裁とその背景を考え、差別の社会を国際的な視点で考える。

 

4.教材(南アフリカの植民地の歴史を捉え、アパルトヘイトの実態を把握し諸外国との関係を理解する)

1)南アフリカにおける諸集団の進出状況

南アフリカのアパルト進出

2)ホームランドといわれる「国」の10地区

ホームウランド

3)ホームランドといわれる「国」を10地区の概要

ホームランド概要

4)黒人たちの思い(感想を述べよ)

『叫べ、憤怒の叫びを』

(1913年原住民土地法:アフリカ非白人詩人ジェイムズ・マシューズの詩集1972年からの引用)

『黒人たちは 白人の法律によって 死に追いやられている

この一帯は 「豊饒の峡谷」と 世間では呼ばれているけれど

豊饒の一かけらもないことを 黒人たちは 告げるだろう

そこでは 子どもたちは すっ裸

そして手足もものうげに よろよろと 歩きまわる

目もうつろに お腹は飢えでパンパンだ

そこでは母親たちは 枯れて死んだ果実を 掘り起こしては土壌にし

女の胸は 乾あがり 乳も出ない

その顔その姿は 過重な労働で やせこけている

そこでは 衰弱し 去勢された男たちは

胆汁のような不味い ジョッキ一杯のブドウ酒で

男らしさを 取り戻そうとする』

5)日本と南アフリカの貿易(輸入) 年度別に見た日本と南アフリカの関係

南アフリカ貿易輸入

6)日本と南アフリカの貿易(輸出) 年度別に見た日本と南アフリカの関係

南アフリカ貿易輸出

南アフリカ自動車輸出

7)日本と南アフリカ(注1)、及びSADCC加盟国(注2)との貿易

輸   出

輸  入

南アフリカ

SADCC

南アフリカ

SADCC

1979年

19.0

3.6

40.5

14.1

1980年

22.5

4.3

39.0

11.2

1981年

22.1

3.3

36.2

8.7

1982年

23.9

4.2

49.2

8.9

1983年

28.9

3.6

48.5

9.6

1984年

28.9

3.3

51.7

10.6

1985年

21.9

5.1

52.1

9.4

1986年

30.4

4.9

56.6

8.3

1987年

32.0

3.7

56.5

11.3

1988年

33.8

5.6

44.9

16.6

1989年

31.5

6.6

46.9

17.8

1990年

26.0

6.5

47.0

18.7

注1.ナミビアを除く、注2.SADCC:アンゴラ、タンザニア、モザンビーク、ジンバブエ、レソト、マラウイ、ザンビア、ボツワナ、スワジランド 

出所先:通商白書

8)南アフリカ略年表(参考資料) ~アパルトヘイト廃止まで

主な出来事

紀元後十数世紀

バンツー系の言語を話す人々が南部アフリカに定住。主に農業と牧畜によって生活。南部アフリカの内陸部にすむソト系言語話者、南東部に住むングニ系言語(後にコーサ後とズールー語に分かれる)話者が多数派を形成

1652年

オランダによるケープ地域の植民地化開始

18~19世紀

オランダ人、フランス人、ドイツ人移住者の子孫のあいたに「アフリカーナー(ボーア人)としての新たな民族意識が形成。言語的にはオランダ語を基礎としながらも文法・語彙の面では異なった発展を遂げ、新たな言語「アフリカーンス語」へ。

1795

~1803年

ナポレオン戦争期間、英国はオランダの植民地だったケープ地域を占領

1700年代後半

~1878年

東ケープ地域で白人移住者によるコーサ語系アフリカ人に対する侵略戦争

1815年

ナポレオン戦争終結。英国がケープ地域の支配権を確保

19世紀初頭

ナタール地方にシャカ王が強力なズールー王国を樹立。

1830

~1840年代

英国の支配に抗議してボーア人達はケープからの大量移住(グレートトレック)開始。アフリカ人たちを征服しながら内陸部へと移動し、トランスバールとオレンジ自由国を建国。英国人はナタールに植民地を設ける。ズールー王国はそのまま

1867年

ケープ州のキンバリー地区でダイヤモンドが発見され、ヨーロッパから移民と投資の増加。

1860年

ナタールへインド人労働者の輸入。南アフリカにおけるインド系勢力の形成。

1860年

イギリス軍によってズールー王国は滅亡。

1886年

トランスバール地方で世界最高の埋蔵量を誇る金鉱脈発見により英国をはじめとするヨーロッパからの移民増加と投資拡大。

1880~

1890年代

イギリス移民とボーア人の間の対立がイギリス政府とトランスバール共和国の政治的対立へ。

1899~

1902年

南アフリカ戦争によってボーア人の国家を征服したイギリスが南アフリカの支配権を握る。

1910年

イギリス植民地と旧ボーア国家からなる南アフリカ連邦結成。選挙権はほぼ白人のみに制限。

1912年

黒人の利益を守るために南アフリカ原住民民族会議(NNC)結成。のちのANC(アフリカ民族会議)

1930年代

1929~33年の世界恐慌から回復した南アフリカは急速な工業化を遂げる。D・F・マランに率いられた純粋国民党内部にアヒリカーナー・ナショナリズムを掲げる闘争的な勢力が登場。アフリカーナーの間に広がる経済的な不満の声を取り込み、強硬な反英国、反黒人主義を思想的共通基盤としていた。

1940年代

工業化の急激な進展と黒人都市住民の急増時期。

1944年

アフリカ人のあいだに新しい急進的な勢力が台頭しANC青年同盟結成へ。その指導部の主要メンバーにはネルソン・マンデラやオリバータンボがいた。翌年には彼らがANCの主導権を握り、武力闘争路線を取ることになる。

1948年

D・F・マラン率いるアフリカーナー国民党が総選挙で勝利し「アパルトヘイト」政策を実行に移す。

1955年

バンツー教育法制定

1955~

1956年

ANCが新教育政策に反対し学校ボイコットを指導。

1960年

警察がシャープビルで抗議運動に参加していた黒人を多数殺害したことが、全国的な政治危機を招く。政府はANCを含む過激な反政府勢力を非合法化。

1961年

南アフリカ連邦から南アフリカ共和国となり、英国連邦を離脱。

1960年代

黒人の抵抗運動をほぼ制圧。アパルトヘイト政策の絶頂期。都市部の黒人の政治的権利剥奪を正当化するために政府は地方に民族グループごとの「ホームランド(バンツスタン)」を設ける。都市部にある黒人中等学校を意図的荒廃させる。黒人用の中等学校と大学は「ホームランド」地域で拡大。

1970年代初頭

黒人意識運動、労働組合、ANCの地下組織による黒人抵抗運動の復活。都市部における黒人中等教育定員が再び増加へ。

1976年

ソウェトで起きた学生蜂起が全国に波及。政府は武力で鎮圧

1984~

1986年

国内各地で大衆蜂起。学生たちが重要な役割。

1986年

P・W・ボタ内閣は国家非常事態を宣言。大衆蜂起は一時的に鎮静化。

1990年

ANCを含む黒人組織の合法化。ネルソン・マンデラ釈放

1990~

1994年

政治的な暴力が広がる中で、ANCと政府による新憲法草案をめぐり協議。

1994年

民主的な選挙によってネルソン・マンデラ大統領誕生 アパルトヘイト完全撤廃

<参考文献>

・ジョバサン・ヘイスロップ(山本忠行訳)2004年 「アパルトヘイト教育史」春風社 

・小田英郎 1991年 「アフリカの政治と国際関係」 勁草書房

・天木直人 2004年 「マンデラの南アフリカ」 展望社

・日本AALA連帯委員会編 1987年 アパルトヘイト 新日本出版社

・川端正久・佐々木建 編 1992年 「南部アフリカ」 勁草書房

・土屋哲 1989年 「アフリカのこころ」 岩波ジュニア新書

・轡田隆 1988年 「南アフリカのアパルトヘイト」 佑学社