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デカルトの倫理学

近代哲学の父


「方法序説」について
デカルトは方法序説とせず、方法の話としている。なぜならば、方法を教えるという意図がなく、単に方法について話すという事だからである。この方法論よりも実践の中にあると考え、物事を認識する以前に前もって認識の方法を確信することができず、自分自身心理の探求を続けてゆく過程によって自ら道が開けるからである。

デカルトは自己の精神の歴史として哲学を考えており、人生に役立つ、及び確実な認識を追及し、日々向上を図っていた。自ら意志によって心理の探求を試みなければ正しい道を選択できず、このことは前もって知ることも出来ず自分自身によって発見する方法しかないとしている。人がたどりゆく道は、単に一挙に自らの意志でまねきよせることができず、だれにも頼らず厳しく自己自身によって規制しつつ確実な真理を目指し、理性をトレーニングし続けてゆけば、道は自然と見えてきて、一般に簡単なものであるが、すごく簡単に自ら真理の探究を試みるか否かとなる。
デカルト自身は実際に行動し自然認識や形而上学的真理を導きだし、更に生活指導、健康の保持、全ての物事に対する完全な知識を生み出そうとしていた。真の知恵は空虚な思弁と異なり人生に役立つ認識をし、単なる抽象的な蓋然性の倫理ではなく、明晰で確証された認識が必要で、有用性、確実性、徳と学の理念を各々に結びつけ、人生に有用であると併せて確証された認識を日々訴求し続けなければならない。このことが、デカルトの知恵の探求とする哲学の道としている。

デカルトの学問は数学的規範とした確実な基礎の上に成立っているから、併せて人生に役立つ知恵を求めながら、学問と道徳を結び付ける学問があり、併せて知恵を目指すことが可能であったので、ルネサンス的な学と徳との分離に終止符をうち、近代的な数学的学問と古代的な道徳的知恵を1つの方法によって関連させ壮大な哲学体系を樹立させた。

デカルトは、人間的知恵の究極である完全な道徳にまで高まりゆくように一筋の道を探し求め、知恵の高峰にまでのぼりつめることが難しく、自分の仕事が未完に終わるものだと考えていた。
その理由は、自分の原理から帰結する全ての心理を導きだすことは数世紀かかるものと考えていたからである。哲学が有限な存在にすぎない人間の時間の中における営みがある限り完結したものでも、永遠なるものでありえないとし、実際に哲学は、常に究極的な知恵のはるか手前において終われないとしているが、哲学者である限り絶対に与えられることのない全体性を目標とし必死の向上を試みる必要があり、宿命としている。

「規則論」について
デカルトは真理認識において神的な霊成・想像力などを明確に捉えており、理性の哲学、文法の哲学が、前述のような人間精神の神の神秘的能力の直感から考えはじめている。そして、神秘的な精神的資源を神秘的なままに放置するものではなく、必ずしも方法に依存しなくても創造的な直感によって、資質がある場合は、みごとに輝き出すことを把握しながら、デカルトはこの道とらず、直感に依存することで満足していない。
故に方法の哲学者であり、理性の哲学者である。人間精神の内に潜む理性的資質を出来る限り規則正しく方法的に導き出し、どこまでも人間の認識能力を完全性へと高めて行こうとし、創造的直感から能力的理性の立場へと転換していく。また、存在によって見出されるのではなく、能動的に理性によって存在を見出していくとしている。

「情念論」について
全て新たに生じること、新たに起ることは哲学者たちの一般に用いられる呼び名は、事柄が行えるのを受け入る主体から見えれば、受動(情念)と呼ばれ、このことを行う主体から見れば能動と哲学と呼ばれており、能動者と受動者の多くの場合は大変違っているか、能動と受動とは、いつも同一の事柄であって、二つの違った主体に関連づけられるので、能動と受動の二つの名称をもっているとしている。

デカルトは人間の基本的な情念として、驚異・愛情・憎しみ・欲望・喜び・悲しみの六つを挙げており、これらの情念は全て身体に関係していて、身体に合一している限りの精神に対してのみ与えているとしている。
例えば、
「驚き」は何か新しい、また、異常な対象が感覚される時に直接おきる情念である。
「愛」は精気の運動により引き起こされた精神のある感動であり、精神を促して自ら適合していると思われる対象に、自分の意志で結合させようとする。
「欲望」は精気によっておこされる精神の動揺で、精神が自分に適合していると想像する事から未来に向かって意志するように促す。
「喜び」は精神の快い感動であって、精神による善の享受の基礎をなし、善と脳の諸印象が精神自身のものとして示すところの善である。
「悲しみ」は、いやな無活動状態であって脳の印象が精神自身のものと示すところの悪から精神が受け取る不快の基礎をなしている。

情念は全て外的対象によって、身体で引き起こされた動物精気の運動により生じ、精神自らの力によって生じたものではないが、自覚がないので、情念の動きが精神自体のものと受け取られ、理性的意志により統制されず、内部から強く発する。
これに対応するために、これらの仕組みを客観的・機械論的に分析して、原因を認識し、情念を主体化する。
これは各々のもつ受動性を能動性にかえ自由意志の能動性に合一させる必要があるからである。理性的意志で情念をコントロールし、強い意志から道徳が生まれる。

(引用文献)
デカルト 伊藤勝彦 2005年7月 清水書院